だいすき

最近用事で二日連続で中年女性と話す機会があったのだが両日あった二人ともブーツでミニだった
もちろんブーツが赤いわけでもなければやけにスレスレのミニでもない
可愛い車に乗ってるわけでもなければ海辺がもうすぐ見えるほど近い場所でもないので決してだいすきになる事はない
一人の女性など「あそこの階段ありますよね?…もう歳できついんですよ」などと言っていた


ああ言う格好をした女性を見ると思うんだが
あの方達はよっぽど今の自分の身体に自信でもあるんだろうか?
それともあんな格好をしないと己のアイデンティティを保てないとういうような不安でもあるんだろうか?
俺は中年女性になった経験はないので多分なのだが両方なのだろう
ナルシシズムと自己へのコンプレックス両方あって人間なんだ
片方だけじゃ具合が悪いんだろう

岡村靖幸椎名林檎

前何気なく岡村靖幸を女にしたら椎名林檎になるんじゃないかと思った
岡村ちゃんが歌うのは常にと言って良いほど男のナルシシズムである
もちろん岡村ちゃんはコンプレックスも歌い上げるがそれはあくまでも根底で表現してるナルシシズムのデコレーションだと思う
終わりかけてる女に「六本木に今すぐおいでよ」とか言ってる時点で現実的に考えるとちょっと…となる
岡村ちゃんの魅力は男なら誰でも持ってるナルシシズムをくすぐる事だと思うのだ
「俺ほどの男はそうはないはずさ」なんて男なら自覚しないまでも深層心理で誰もが持ってる感情なのだ
それを本当に声高らかに宣言するから岡村靖幸というアーティストに我々はカタルシスを憶えるのだ


前述であれだけ声高に語りかけておいてナンなのだが
椎名林檎のどこら辺が女性にとってナルシシズムを刺激されるか?と聞かれると
俺は男なのでそれは答えられません…としか言いようがない
ただ周りの女性の椎名林檎に対する評価を見るにそう感じる事が多い
椎名林檎に限った事でもないが少女漫画とか女性文化*1を見てると
女性という生物はナルシシズムをあくまで内に向けるのに快感を憶えるタイプなんじゃないかと思う


誤解を恐れずに極簡潔に言うとすれば男とは他人に褒めて貰いたい、女は自分に褒めて貰いたい生物なのではないだろうか?
しかし実生活の中における心理は全くの逆であろうと思う
だからアーティストや漫画、小説、ドラマ、映画…外からの刺激を使ってカタルシスを求めるのではないだろうか

そう言えば尾崎豊

最近何となく良く思う事なのだが
尾崎豊って生きてたら今全然違う評価されてるんだろうなと思う
尾崎豊を「あれはヤンキー賛歌だ」と評し尾崎豊を貶すのがスタンダードに近くなっているような気がするのだが
それは大きな間違いじゃないかと思う
その行為って岡村靖幸を聴いて「こいつは男尊女卑だ」って言ってるのと同じじゃないだろうか
簡単に言えばそういう芸風なのだ


岡村靖幸尾崎豊どちらも80年代の申し子である
少々言い方を変えるが岡村靖幸が男のナルシシズムだとすると
尾崎豊は少年の持つナルシシズムの“代弁者”なのだろう
それがマジョリティと言い切って良いのか分からないが
十代前半反骨が格好良いと思う時期がある
夜の校舎窓ガラス壊してまわるのも
俺なんかちょっとがんばればきっと女なんかジャンジャンモテまくり
と思うのもベクトルとしては同じ位置に居るような気がしてならない


岡村靖幸は尾崎の死への悲しみもあり
アーティストとして30代前半と90年代を失った
再び岡村ちゃんが我々の目の前に現れたときは
40代目前のおじさんになっていた
リリースされる新曲は当然若い頃と比較され
「若い頃が良かった」と酷評される
しかし岡村靖幸はそれでも少年の情念で冒険をつかみ取ろうとするのだ
もし尾崎が生きていて中年に、おじさんになっていたら…と考える
今の尾崎とは全く違う評価をされるのだろう

*1:こういう表現って性差別的か?